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歴史に名高い、女流ギャンブラー

歴史に名高い、女流ギャンブラー

7/24/2018

ギャンブルは男性のするものだと思われがちですが、歴史に名高い女流ギャンブラーも数多く存在します。19世紀に名を馳せた5人の女流ギャンブラーをここで紹介しましょう。


第5位 エレノア・デュモン(Eleanor Dumon)



写真を見てお分かりの通り、唇の上に濃いひげが生えていたため「マダム・ムスタッシュ(口ひげ夫人)」というニックネームで知らせていた、エレノア・アルフォンシー・デュモンは、そのギャンブラーの腕で有名になった女流ギャンブラーのひとり。

フランス出身のエレノアは、幼少の頃にワイルド・ウエスト(アメリカ西部)へ家族と渡り、カリフォルニアから南ダコタ、ネバダ、アリゾナ、サンフランシスコなど、移動を繰り返す生活を強いられましたが、どこへ行ってもカジノで生計を立てていました。

エレノアはネバダ市に、品行方正な男性のみ入場が許されるギャンブルパーラー「ヴァンテアン」を開業。美しいエレノアはギャンブラーたちと程よい距離を保ちながら、客を呼び集め、女性のディーラーが珍しい時代だったこともあり店は大繁盛。入場できるということが名誉なことだと見なされた「ヴァンテアン」は人気を博しました。


第4位 ロティ・デノ(Lottie Deno)



シャーロッタ ・J・トムキンズは、ケンタッキー出身の有名な女流ポーカープレイヤー。競走馬を飼育する裕福な家庭に育ったと言われているロティの父もギャンブラーで、旅にロティを連れて行き、カジノでカードゲームを教えました。ロティは父の死後、結婚相手を探すためにデトロイトに送られますが、お金を使い切ってしまったロティはギャンブルで稼ぐ意思を固め、ミシシッピ川へ、メアリー・ポインデクスターと向かいます。

1865年、ロティはサンアントニオに腰を落ち着け、ユニバーシティ・クラブのハウス・ギャンブラーになります。フランク・サーモンドと恋に落ちたロティは、フランクが殺人罪でとがめられ、町を追われると、ロティも彼と共に町を出てテキサス中を放浪。フォート グリフィンでは、ロティはギャンブラーとして伝説的な存在にまでなり、「サンアントニオの天使」「ペーストボードの女王」などのニックネームで有名になりました。数年後、ロティはニュー・メキシコに移住し、シルヴァーシティでギャンブルルームとレストランを経営します。

ギャンブル三昧のエキサイティングでスリルのある生活を何年も過ごした後、ロティとフランクは結婚。セントルーク教会へ寄付をするなど、社会に貢献しました。


第3位 アリス・アイヴァース(Alice Ivers)



アリス・アイヴァース・ダフィールド・タブス・ハックケートは、イギリス人のポーカー・スタープレイヤー。アメリカ西部でギャンブルのキャリアを積んだアリスは「ポーカー・アリス」として良く知られています。

イギリスのデヴォンに生まれ、アメリカのヴァージニアで育ったアリスは、フランク・ダフィールドとの結婚後、ポーカーを知るようになります。アリスにポーカーを教えたフランクは事故死。その後未亡人になったアリスは教師などの仕事にも就くものの、次第にポーカーで生計を立てるようになります。アリスはギャンブラーでありディーラーでもありました。女性のギャンブラーが珍しい時代であったため、男性から頻繁にチャレンジを申し込まれ、多くの人が彼女のプレイを見に集まりました。アリスの美しさはテーブルでも役立ちましたが、何よりもそのポーカーの腕は確かで、一晩で$6,000稼ぐ(約67万円)こともあり、それは当時では法外な金額でした。

1910年、アリスは、南ダコタのフォート・ミードにギャンブルサロン「ポーカー・パレス」を開業。ここはギャンブルパーラーと売春宿を兼ねていましたが、信仰深いアリスは、日曜日は閉店していました。しかし1913年、泥酔した何人かの兵士たちが日曜日にサロンで暴れ、怒ったアリスは一人を射殺、他にも負傷者が出て逮捕されます。裁判では、自己防衛を主張し無実となるもののサロンは閉店しました。


第2位 キティ・ルロワ( Kitty LeRoy)



10歳の時点ですでにプロのダンサーとして活躍していたミシガンのキティ・ルロワは、ダンスに加え、射撃とギャンブルも学びました。15歳になるまでにキティは結婚しますが、静かな結婚生活は物足りず長くは続きませんでした。

西へ旅を続けたキティは20歳までに再婚。ダンサーとしても有名になりますが、ダンスをやめファロのディーラーとなったキティは、頻繁に男装をしたりジプシーの格好をすることを好みました。

キティは2番目の夫とカリフォルニアに移住することを決意しますが、旅の途中で心変わりをし、カリフォルニアに着く前に3番目の夫と結婚。この関係は非常に短く激しいもので、口論の後キティは夫に銃での決闘を申し込み、女性相手には勝負できないとした夫に対し、男性の服装に着替え闘いを挑んだキティ。結果キティは夫を撃ち、まだ息のあるうちに宣教師を呼んで二人は結婚。3番目の夫はその数日後に死亡しました。

その後キティは1876年頃ダコタのデッドウッドへ移住し、売春婦として働きながらギャンブルサロンを経営。4度目の結婚をしますが、激しい口論の後、瓶で4番目の夫の頭を殴り追い出します。

サロンと売春宿の経営は成功をおさめたものの、5番目の夫であるサミュエル・R・カーリーは非常に嫉妬深い男であり、1877年12月6日、嫉妬からかっとなったカーリーはキティを射殺。その後カーリー自身も自殺しました。


第1位  マリア・ヘルトルーディス・バルセロ(Maria Gertrudis Barceló)



マリア・ヘルトルーディス・「トゥールス」・バルセロは、ニュー・メキシコのギャンブルサロンのオーナーであり、プロのギャンブラー。「罪の女王」というニックネームで知られており、アメリカのメキシコ侵攻を正当化するために、不道徳な存在の象徴として描かれることもあります。

メキシコのソノラ出身だと言われていますが、フランス出身という記述もあるマリアは、1823年マヌエル・シスネロスと結婚しますが、自立にこだわり、自身の資産と旧姓を保持。2年後、違法のギャンブルサロンを経営したことで罰金刑を受けたため、サンタフェへ移住しそこでサロンを開業します。

ケンタッキーの政治家の孫であるスーザン・マゴフィンの記述には、マリアは「社会的品位を落とす事だと思わず、ギャンブル、アルコール、タバコを提供する施設を経営し生活している」とあります。

彼女が生きていた時代において既に多くの悪い噂が広がっていたため、マリアの人生や仕事について、どの情報や記述が正しいのかを決定するのは難しいと言えますが、ひとつだけ確かなことは、マリアは腕の良い素晴らしいギャンブラーで、裕福な女性であったということ。ニューメキシコ侵攻後、アメリカ軍はマリアから融資を受けていたのです。

マリア・ルセロはサンタフェのいくつかの物件と、$10,000(約120万円)の遺産を子孫に残し1952年永眠しました。

コンテンツ: Jelena Schmidt
画像: Shutterstock

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